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心にグサっと刺さった週刊朝日の村木厚子氏へのインタビュー記事

何度読んでも、心に響く。

このようなことは日常茶飯事なのだろうか。
検察は、この件を受けて何か変わったのだろうか。


主文、被告人は無罪──。

9月10日、郵便不正事件で罪に問われていた村木厚子元厚生労働省局長(54)に対し、当然のごとく大阪地裁の横田信之裁判長はそう言い渡した。

検察の主張のほとんどを認めない、「完全な無罪判決」だった。突然の逮捕から、5カ月以上にわたる勾留生活、そして裁判での検察との闘いまで。村木氏は判決の直前、勾留中に書いた日記や被疑者ノートを手に本誌のインタビューに思いのたけを語ってくれた。

 3時間45分にも及ぶ判決文の朗読後、満面の笑顔で会見の場に現れた村木氏は、

「うれしいです。判決を聞いて、1回心臓が大きく鼓動しました」

 と語った。しかし、昨年の6月に無実の罪で逮捕され、長い間の犯人扱いに拘置所暮らし、そして巨大権力である検察特捜部との厳しい闘いを強いられてきた。

 保釈後からこれまで、友達と食事に出かけたり、娘たちと過ごしたり、久しぶりの育児休暇のような感じで過ごしました。一時は6キロ減った体重も4キロ戻りました。拘置所にいるときは、仕事もないし、家事をすることもなかったので、今、誰かのために何かできるというのはとても幸せなことなんだな、と感じています。

──2009年6月14日、当時、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長だった村木厚子氏は大阪地検特捜部に逮捕された。逮捕容疑は虚偽有印公文書作成・同行使、実体のない障害者団体「凛の会」に郵便割引制度の適用団体と認める偽の証明書を発行するよう部下に指示したというものだった。

 その少し前に、大阪地検の事務官の方から役所に「大阪まで来てほしい」と電話がありました。当時の部下であった上村勉さんもすでに逮捕されていましたし、報道でも私の名前が取りざたされていた。なんで早く事情を聴いてくれないんだろう、と感じていましたから、やっときたか、という思いでした。
 弁護士の弘中(惇一郎)先生に相談したところ、「多忙を理由に『東京でやってもらえないか』と交渉することもできますが、大阪に来なかったことを理由に逮捕されることもあります」ということでした。それで、2日分の着替えを持って大阪に向かいました。

──取り調べを担当したのは大阪地検特捜部の遠藤裕介検事だった。

 遠藤検事が聞いたのは三つです。
●「凛の会」会長の倉沢邦夫さんに会って、障害者団体であることを認める証明書の発行を頼まれたか
●国会議員からの依頼を受けた上司の指示を受けなかったか
●上村さんに証明書の作成を指示しなかったか。

 倉沢さんについては記憶にないが、仕事柄、毎日たくさんの人と会うので、覚えていない可能性はある。しかし、実体のない障害者団体とわかっていて、証明書の作成を指示したことはない、と答えました。すると、遠藤検事は非常にあっさりと供述調書をつくり、「今、逮捕状を請求しています」と言いました。そのときは、否認するとこんな簡単に逮捕される段取りになっているんだ、とひとごとのように感じていました。

 それよりも、自宅に残してきた娘(19)に、このことをどう伝えるべきか、ということが気にかかっていました。「母親の逮捕」というショッキングな事実を、テレビや新聞で知るということだけは避けたかった。しかし、電話をかけるのはダメだという。

 女性の検察事務官が私の代わりに娘に連絡してくれる、というので、携帯電話の番号を探すふりをして、検事の目を盗んで、海外出張中だった夫にメールで「たいほ」と送信しました。漢字に変換する時間もありませんでした。これで、夫が何とかしてくれると、ホッとしました。

 こういう話をすると、あいつは神経の太いヤツだって思われるので、もうちょっとかわいそうな人でいたほうがいいかなと思うんですけど。(笑い)

──その後、逮捕状が執行され、大阪拘置所に移送されたのですね。

 移送の車を待つため、座っていると、急に涙がこみ上げてきました。でも、泣きたくなかった。泣くと弱気になり、心が揺れますから。隣についてくれていた女性事務官と話をして気を紛らわせました。移送の車に乗る直前、事務官が「マスコミがたくさん来ているようです。顔を隠すためのマスクがありますが、使うかどうかは村木さんが決めてください」と言ってくれました。私は一瞬、どうしようかと思ったのですが、平気な顔して出ていこうと決めました。幸い、車は、後部座席のカーテンが閉められていて中の様子がわからないようになっていました。ただ、カーテン越しにものすごいフラッシュがたかれているのはわかりました。

──村木氏が入れられたのは、大阪拘置所5舎2階の通称「カメラ房」と呼ばれる24時間カメラで監視される部屋だった。

 第一印象は、古いし汚いし、なかなかすごいところだなあ、と。1日目は持ってきた衣類は検査のために取り上げられて手元にありませんでしたので、支給された灰色のLサイズのトレーナーを着て寝ました。不安もあって眠れないかと思ったのですが、それまで、自宅にも職場にもマスコミの人が追いかけてくるような状態だったので、誰も追いかけてこない場所に来て、意外なことにその日はぐっすりと眠ってしまいました。

 逮捕されたんだ、という実感がわいたのは、翌朝、裁判官の勾留(こうりゅう)質問を受けるために、拘置所の車両に乗ったときでした。初めて、手錠をかけられ、腰縄をきゅっとしめられた。ああ、犯罪者のように扱われるんだな、この姿だけは家族に見せられないな、と思いましたね。

 そのうち、手錠をかけられた右手首が我慢できないくらい痛くなってしまい、女性刑務官に「右手が痛いんですが」と訴えると、すぐに黙ってかけ直してくれた。その対応に、少し安心感を覚えました。後で考えると、不自然な格好でかけられたから、痛かったんだと思います。お縄をちょうだいする姿勢で手を差し出すと痛くないんですよ。

──拘置所の生活はいかがでしたか?

 いちばんつらかったのは、暑さと寒さですね。食事は麦ごはんが結構おいしくて、気に入っていました。献立はすべてノートに書いていました。これ何ていう食べ物だろう、と思うようなメニューもありましたが、鶏の照り焼きは二重丸でした。

──そして取り調べが始まった。村木氏は逮捕された6月14日から、被疑者自身が取り調べ状況などを記す「被疑者ノート」をつけていた。逮捕翌日の6月15日の欄にはこう書かれている。

〈拘留の説明 20日だが、土曜の起訴はないので7月3日まで。結果は村木の場合は起訴されると説明され、裁判のことは考えているかと聞かれた〉

 最初から結論が決まっているなら、これからの20日間の調べは何なのだろう、と思いました。起訴されるまでの20日間は本当にプレッシャーでした。一日が終わると、拘置所の独居房に張ってあるカレンダーを穴が開くくらい見て、「今日も一日が終わった。あと○日だ」と自分を奮い立たせていました。その後、差し入れで比叡山延暦寺の僧侶、酒井雄哉さんの『一日一生』という本をいただいて、酒井さんが千日にも及ぶ修行を、「その日一日を一生と思って精いっぱい生きるのだ」と書いていらっしゃったのを読み、かなり励まされました。

──6月18日のページにはこんな記述もある。

〈冒頭、雇児局(編集部注=雇用均等・児童家庭局)から原稿料のプール金がみつかったが、知っているかと聞かれた。(中略)当時、障害部にもあったと資料を見せられる〉

 遠藤検事から「裏ガネあるでしょ?」と言われたので、「裏ガネって何ですか? 裏ガネなんてありません」と答えました。すると、遠藤検事は「裏ガネではなくてプール金です。確かにプール金は違法ではありません」と認めましたが、何か私にやましいところがないか探していたのだと思います。ほかにも、私の業務日誌に、ある政治家の人から「君は危ない橋も渡ってくれた」と感謝された、という記述があるんですが、そのフレーズについても調書にされました。弁護士の先生と相談して、事件とは関係ない時期の話だからと署名はしませんでした。すると、保釈請求の際に検察が「サインをしていない調書があるから保釈を認めるな」と意見を出してきたのにはびっくりしました。

──冷静でいることを心がけていたという村木氏だが、一度だけ感情をあらわにしたことがあるという。

 遠藤検事から「どうせ執行猶予がつくのだから、大した罪ではない」と言われたときです。私は喜怒哀楽のなかでも、「怒」が比較的少なくて、周囲の人からも「沸点が高いね」と言われるのですが、このときだけは怒りで涙がこぼれました。われわれふつうの市民にとっては、犯罪者にされるか、されないか、これまで築いてきた信用を失うかどうかの問題です。検事さんの物差しは特殊だと訴えました。すると、遠藤検事は割とまじめな人で、休憩の後、「さっき物差しが違うと言われましたが、確かにそうかもしれません」とおっしゃいました。ほかにも、私が複数の知り合いから「検察はストーリーを無理やりつくって、それに合わせた供述をとるから気をつけて」とアドバイスされた話をすると、「全員がそう言ったんですか?」と聞かれて、「例外はなかった」と答えると、がっかりした様子でしたね。

──遠藤検事以上に違和感を感じたのが、7日目から取り調べにやってきた国井弘樹検事だった。

 遠藤検事は私の話を丁寧にメモにとりながら聞いていたのですが、国井検事は、私の話も聞かず、自分の考えるストーリーを一方的に話すと、「つまりこの事件はこういうことなんですよ」と言ってきました。

 そして、無表情ともほほえみともつかない表情をしながら、「昔、担当した事件で、非常に有力な証拠を握っていながら、取り調べのときには明かさず、裁判でその証拠をつきつけて、有罪にしたことがあるんですよ」と、脅しともとれるような武勇伝を披露してきました。差し向かいで話をしていても、いつも間に分厚いアクリル板があるような距離感を感じました。

 あるとき、国井検事がとんでもない内容の調書を作り、「これにサインしますか」と迫ってきたことがありました。すぐに「しません」と拒否しましたが、あのときの調書をプリントさせておいたらと、後悔しています。検察側も今回、私が署名を拒否した調書を裁判で証拠として請求しました。私も、国井さんのむちゃくちゃな調書を検察側の強引な取り調べの証拠として請求できたのに、と思うと返す返すも残念です。

──11月24日に保釈されるまで、村木氏の勾留生活は5カ月以上にも及んだ。この間、自身の主張を貫くことができたのは、多くの人からの励ましがあったからだという。

 私が真実を貫けたのは、絶望せずにすんだからだと思うんです。逮捕されてすぐ、接見に来た弁護士の先生が、アクリル板越しに一枚の色紙を見せてくれたんです。そこには「信じてます、頑張って」というメッセージとともに、多くの仕事仲間や友人の署名が書いてありました。家族は私のことを200%信じてくれると思っていましたが、こんなに多くの人が私を信じて応援してくれるとは思わなかった。逮捕されて、一度はすべてを失ってしまった、と思ったけれども、私は変わっていないし、何も失っていないんだ、と気がつきました。

──面会が許されると、約70人の友人が村木氏のもとを訪ね、500通もの励ましの手紙が届いた。

 本当にありがたかったですね。夫とも文通をしていました。別にロマンチックなことを書いているわけではなく、「こんな本がおもしろいよ」とか、「○○さんが面会に来てくれてうれしかった」とか、たわいない情報交換が主でしたが(笑い)。そのとき感じたのが、いちばん楽しいこと、うれしいことを共有できる相手というのは夫だったんだな、ということでした。

──起訴後は一度も取り調べをされることはなく、保釈までの時間を150冊もの本を読んで過ごした。勾留中に村木氏がつけていた日記にはたびたび本の感想が書かれている。

〈7月3日 サマータイム・ブルース サラ・パレツキー ハヤカワ文庫 V・I・ウォーショースキー シリーズ第1作 (中略)
「あなたが何をしたって、あるいはあなたに何の罪もなくたって、生きていれば、多くのことが降りかかってくるわ。だけど、それらの出来事をどういう形で人生の一部に加えるかはあなたが決めること」 主人公が兄を亡くし、冷たい家族のなかでキ然とがんばる少女ジルに言うことば〉

〈7月6日 人間だもの 相田みつを 角川文庫 
相田みつをはあまりにベタで避けてきたが、(ギャグに使われていたのをみたことがあるし……)読んでおもしろかった。とりわけ

 弱きもの人間
 欲深きもの にんげん
 偽り多きもの にんげん
 そして人間のわたし

というのを見て、今回の登場人物にあてはめると、あまりにもぴったりきたので
その洞察力に感服した〉

 この相田みつをさんの詩はかなり慰めになりましたね。私は塩田幸雄さん(当時部長で現・小豆島町長)や上村さんは「弱きもの」だと思うんです。じゃあ、検事はどれに当たるんだろう?と思い、弁護団の先生に聞いたことがあるんです。そしたら、その先生は「うーん。欲深きものじゃないかな。結局は出世欲だから」っておっしゃっていましたね。

──2010年1月27日、大阪地裁で裁判が始まった。当時は共犯者とされた事件の関係者は、この時点で村木氏の事件への関与を認める供述調書に署名していた。ただ一人、無罪を訴えて闘うことに不安はなかったのだろうか。

 勾留中に証拠開示が行われ、関係者の供述調書をすべて読みました。当時、私の上司だった塩田さんが、「国会議員の先生から頼まれて村木へ指示した」と証言しているくだりや、部下だった上村さんが、私から指示を受けたと供述している調書を読んで、正直怒りを感じたことがないとは言いません。「なんでみんなウソをつくんでしょう」と、接見に来てくださった弘中先生に怒りをぶつけてしまったこともあります。でも、冷静になって調書を読んでいくと、明らかに客観的事実の間違いがいくつもあった。例えば、塩田さんは「障害者自立支援法案をスムーズに成立させるため、当時野党の大物議員だった石井一(はじめ)先生の言うことを聞くしかなかった」と、この証明書発行の動機について語っている。しかし、この事件が起きたとき、自立支援法案はまだ影も形もなかった。これは厚労省の審議会の議事録を見ればすぐにわかる。そのとき、この事件がおかしいということを証明できるんじゃないか、という期待がわきました。

──その後、証人として出廷した関係者が次々と供述調書の内容を翻す証言を始める。事件の実行犯とされた上村被告は「偽の証明書の発行は自分一人で実行した。いくら検事にそう訴えても聞いてもらえなかった」と涙ながらに村木氏の関与を否定した。

 実は、あのときに娘も傍聴に来てくれたんですが、彼女が家に帰ってから「ママ、私、もう上村さんに怒ってないよ」と言ったんです。私もまったく同じ気持ちでした。彼の取り調べのつらさとか苦しさとか、伝わってきました。検事からの質問には情緒不安定になっていた彼が、弘中先生や弁護団の先生の質問には落ち着いて答えている様子も手にとるようにわかった。

 上村さんが法廷で被疑者ノートについて証言しているとき、私は泣いていました。後で、弘中先生に記者から「村木さんは花粉症ですか?」と質問があったそうです。私は泣いているのがわからないように、何度も鼻や目にハンカチを当てていたので、そう思ったんでしょう。上村さんは、自身の被疑者ノートに、国井検事から「上村さんだけがウソをついている」「(上村さんは)全然覚えていないから、他人の力を借りるしかない。多数決でまかせて」と言われたと書いています。私も国井検事から「あなたの証言だけが浮いている」と言われました。

 しかし、その後、証人として出廷した国井検事は上村さんの被疑者ノートの内容を「真実ではないところがある。私の話をうまく取り込んで狡猾(こうかつ)だなあと感じた」と証言しました。そう言い放った国井検事を見たとき、この人は人間として信用できないと思いました。検察という組織が恐ろしくなった。検察側席を見ると、恐怖で心臓がドキドキするようになりました。証言後、国井検事が私のところにあいさつに来たのですが、ふつうはそんなことは絶対しないのに、嫌でしょうがなかったので弁護団のほうを向いて、気がつかないふりをしました。怒りと不信でいっぱいでした。

──裁判を通じて、自身の「無罪」を証明できる、と確信したのはいつだったのだろうか。

 民主党の石井一先生から証言をいただいたときです。「凛の会」会長の倉沢邦夫さんは、04年2月25日に議員会館の石井先生の部屋で、口利きを依頼したことになっていたのですが、石井先生はその日、千葉県のゴルフ場に行っていて、倉沢さんとは会うことは不可能だった。弘中先生からその話を聞いたときは、体の力が抜けました。事件の「入り口」からウソだったのか、と。

──1年以上にも及ぶ検察との闘いは村木氏にとってはどんなものだったのだろう。

 長くもあり、短くもありました。無実であることは自分がいちばん知っていましたが、早い段階で周囲の人が「信じている」と言ってくれたことは大きかった。検察は必要な組織ですし、人間のやることだから、絶対に間違えないということはありえない。ただ、もっと丁寧に捜査してほしかった。今は、二度とこうしたことが起こらないよう、問題点を自らの手で検証してほしいと思っています。

 昨年11月、保釈の許可が下り「自由」を実感したのが、東京へ戻る新幹線の中で飲んだ缶ビールだったという村木氏。判決後、
「今日のビールは最高ですね」
 と記者が声をかけると、
「そうですね」
 と、この日一番の笑顔で答えた。

 今後、大阪地検は2週間以内に控訴するかどうかの判断をすることになる。メンツではなく、この真実を真摯(しんし)に受け止めて結論を出すべきだろう。

(ジャーナリスト 今西憲之 + 週刊朝日 大貫聡子、小宮山明希)